●「やれているから視覚的支援を無くす」の問題点
自閉症支援の中で、できるようになったら視覚的支援を無くす支援者がいらっしゃいます。「できるからはずす」「やれているから視覚的支援はいらない」という方がいらっしゃいます。でも私は、それには疑問を持っています。
よく私は「パソコンでブラインドタッチタイピングになってもキーボードの文字は消さない」という例を出します。
例えば、組み立て課題の完成見本をできるようになったという理由で指示を無くす支援者がいらっしゃいます。私は、その視点には疑問があります。完成見本の内容が変わっても(例えば具体物から写真、絵など)、はずさないことが重要と思います。本人の状況の変化で視覚的なタイプは変わります。また内容が変われば指示が変わります。昨日まで組立てで使っていた材料で、今日は分類をするかもしれません。だからこそ指示は無くさないんです。
●『やれているから視覚的な支援を無くす』のデメリット
『やれているから視覚的な支援を無くす』ことのデメリットは以下です。
- 将来の柔軟さが無くなる(例えば、「組み立て」→「分類」のように指示の変化への対応の困難さ)
- 指示は変わることに対応できない(例えば、商品の内容が変わった時の対応の困難さ)
- 間違いに気づけない(例えば、自己流になった時に間違いを気づきに難い)
- 修正、調整の基準がなくなる(完成するまでの修正、調整)
視覚的支援を無くして、ルーティン(繰り返しの活動、習慣化)だけの学びをすることは、そのルーティンの中でできているだけで、内容や状況が変わった時には対応できないとおもいます。そして、世の中は必ず内容、状況が変わります。
●脱構造化という視点の問題点
時々、一部の支援者・専門家からの「脱構造化」という用語を見聞きます。
私は、この「脱構造化」という表現を基本的には使いません。脱構造化は構造化を無くすイメージがあります。それは本来のイメージとの違いがあります。
「将来は構造化は無くすものだ!」の脱構造化の視点は、私には違和感を感じてしまいます。
本来は、構造化を無くすイメージではなく、設定された構造化がナチュラルキューに移行するプロセスだと考えているからです。
ナチュラルキューとは、意図的に準備しなくても自然な形に環境にある指示のことです。
設定された構造化を無理に脱ぎ捨てることはナンセンスと思います。設定された構造化はスケジュール帳など定型発達の私たちも使い続けます。
実際の支援の場面では以下の視点で考えます
- 構造化は無くならなくて良いもの
- 設定された構造化からナチュラルキューに移行する内容がある
- 構造化をフェードアウトしたり、内容を調整したりする再構造化の視点は継続する
用語解説:ナチュラルキュー
支援者が意図的設定した視覚的な指示ではない、自然にある指示です。
下の写真のような最初から道具などにある指示から、就労支援では企業にある視覚的提示も私はこのナチュラルキューにします。
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「キーボードのキー表示をなくしてみる」という例は、とても分かりやすですね。大人でも痛く実感できますよ。よく使うキーは、キー表示が擦り切れて見えなくなりやすく、”a”とか”f”が見えないようなキーボードも時々見ます。一個、視覚支援がなくなるだけで、もう、操作性はガタ落ち(>_<)。
視覚的な手がかりは、とても重要ですね。